父は、急性重症膵炎を患い、やっと退院できるという頃に、今度は腎炎になってしまい、2週間寝たきりとなりました。
その間、わたしの方はというと、5才の息子怜と自分のインフルエンザAの病み明けでした。わたしも怜も、インフルエンザと気づいたときには薬が効く日が過ぎていて、二人とも薬なしで治しました。わたしはインフルエンザBのときよりも全然かるく済んでいたので、全く気が付かなかったのです。夫ももしかしたらかかっていたかもといいますが、普通に仕事に行ってました。怜がインフルエンザAと診断された時点で症状が同じだったのですが、どうせ薬もないことですし、そのままやり過ごしました。
そして、インフルエンザのときに台湾からの卵が届き、あまりにも美味しくって一気に10個ほど食べてしまったのです。
鼻水が出ていたので、「鼻炎の人は卵を食べると蓄膿になる・・・」と言っていた、わたしのアレルギー科の主治医の言葉が思い出されましたが、やめられませんでしたf^^;
ほどなく、副鼻腔炎になってしまいました。
ひどい頭痛、顔面痛、上奥歯痛、吐き気、そして全身がだるくてインフルエンザのときには動けたのに全く動けず、ゴールデンウィークは完全に一人で寝込んでいました。鼻が詰まって苦しいというだけの話しじゃないんですね・・・・。
夫と怜は、滝野公園へ遊びに行ったり、外食してもらったりしていました。
わたしはというと、洗面器にお湯を張り、生理食塩水を作り、そこにティーツリーオイルを垂らしたもので、なんども鼻うがいをしました。ネットにこれで10年来の慢性蓄膿が治ったと書いていたからです。こんなことにもティーツリーオイルが使えるのかと感心しました。
鼻うがいはなかなか上手にできませんでしたが、3回目くらいで上手にできるようになってきました。ティーツリーオイルをいきなり高濃度で使うのは怖いので、徐々に濃度を濃くしていき、効果を高めるようにしました。慣れてくると、膿が大量に出て行くようになりました。こんなに出したのに、まだ出るのかと驚くほど、どんどん出て行きました。
内科での診察と薬だけだったので耳鼻科へも行ってみて鼻を洗浄して欲しいとお願いしたのですが、痛い薬を鼻の奥に吹きかけられただけでした。
そんな状態だったので、ゴールデンウィークに父をお見舞いに行くという話もなくなりました。
翌週の土日、12日、13日は夫が通信大学の通学だったたことと、父は呼吸器をつけて意識がほとんど無い状態だったため、見合わせていました。わたしも副鼻腔炎がやっと治ってきた感じで、調子は良くありませんでした。
さらにその次の週の14日月曜から18金曜日まで怜は入院していました。おなかが痛いということでしたが、風邪をひいたことから喉にヒブが入って炎症の数値が高くなってしまったようです。炎症値10以上が重症だそうですが、怜は入院時12以上ありました。その土日、19日、20日も、退院明けなので函館まで行く気もなく・・・。
不調が続くので、ブログも書かなければ、オークションもほとんどしていませんでした。
そうこうしているうちに、5月最後の土日を迎えようとしていました。
父は、やっと呼吸器が外れ、意識も取り戻したようなのですが、2週間も完全に動けない状態で寝たきりだったためか、退院直前でそれなりにあるけるようになっていた状態から今度は指の関節すら動かせないほどになってしまったのです。
体の感覚もほとんどなくなってしまったようです。
父は母に「左手があればよかったのになぁ・・・」と言ったそうです。
母は驚いて「ここにあるじゃない」と、目の前に左手を持ってきてあげると、
「ああ、在ったのか」と言ったそうです。
息子怜が、まだ話し始めたばかりの1歳か2歳くらいの幼いころ、「赤ちゃんは手がそこにあることを知らない」ということを教えてくれましたが、まさに似たような感じなのかと思いました。
赤ちゃんは自分で自分の体を思いどおりに動かせないので、自分の手がここにあるということを知らないのだというのです。
そんな父ですが、3日ほどもすると、間接もほぐれてきたようで、すこしは動けるようになってきたようですが、食事を一人で食べれるようになるまでには1週間近くかかりました。
膵炎でICUから出てきたときよりも割りと動けるようになっていったのは早いような気がします。
しかし、25日金曜日の朝に母に電話してみると、父が落ち込んでいて母の顔も見ないし話もしないというのです。
こういうときは、母も迷惑がりながらもわたしにお見舞いに来て欲しいようですので、急遽怜の幼稚園を休ませて、函館へ一緒にお見舞いへ行くことに決めました。
日曜日に古本市へどうしても行きたいので、翌日土曜には自宅へと帰る強行です。
片道5時間程度車を運転していきます。
わたしも大変だけれど、よく怜はおとなしく乗っているなと感心します。今回は途中で公園などにはほんのちょっと寄りましたけれど、それも毎回ではないのです。
お見舞いに行ったとき、父にはよくこうして無事にまた戻ってきてくれて嬉しいと伝えました。
病室の外を見ると、競馬場に馬と騎士が一組、練習していました。
「競馬、見れるからいいんでしょ」というと、
「そんなつもりはなかったのに」と残念がっている様子です。
「まぁ、ゆっくりしているしかないね」と、脚や肩、頭をいつものようにマッサージしました。
父は、肩や頭は痛いから止めて欲しいというので、ほんの軽くにしました。
けれども、ずっと寝たきりだとほんと痛くなっているのでほぐしておかないと辛いんです。副鼻腔炎で寝てばかりいたのでよくわかりました。
こうして金曜、土曜とお見舞いして帰りました。
毎度のことなのですが、函館に泊まると怜が咳をするんです。鼻かぜを引いてしまうというか、困ったものです。
それから、今回腎炎を起こしてからは特に祖母にまめに状況報告をするようにしていましたが、祖母との話は本当に不愉快でした。
自分の息子が病院に半年以上入っているというのに、お見舞いへ行ったのは合計しても3回くらいです。それは93歳にもなるので、片道車で1時間30分以上を行くのが大変なのはわかります。
何かと金、金という祖母。
それから、祖父の入院時に自分のときはこんなに大変な付き添いをした、という話をしたがるものだから、だれも近況報告を入れたくないのですが、「誰も何も教えてくれない、電話くれない」と言って嘆いています。
わたしだって、毎回長電話になるのに、いちいち教えてあげるのも面倒です。ただ、父にとっては母親なのでやはり状況くらいは教えてあげたいと思って電話をしていました。
そこに、祖母の昔話やら自分の考えなどを色々聞かされるのです。
これはたまったもんじゃないです。うちの両親がよく怒っていた内容を思い出します。
いやはや、よ~くわかった、わたしもただだまって聞いてストレスを溜めるのはイヤだ、けれどもうちの両親、特に母が言いたくてもいえなかったことを言ってあげるためにも、祖母の話を聞こうと思いました。
最終的には聞くことを聞き、言いたいことを殆ど全部言って、なおかつ「ばあちゃんの昔話はもう聞かない。状況報告だけはしてあげたいと思うけれども、それ以外の話は聞いても不愉快なだけだし、伝わらないと思うからもう聞かないし何も言わない。お互いに不愉快でしょう?」と打ち切りました。
そんな不愉快な話の内容の一部を書いてみると、こんな感じです。
祖母は、重症急性膵炎の補助金は出るのかと聞いてきました。
最初の聞き方は、そういう聞き方ではなくて「それは難病に認定されたのか」という聞き方でした。
わたしは、「重症膵炎=難病だから、認定されるも何も、これは難病である」ということを言いましたが、後になってお金がでるのかどうなのかが気になっているのかと思いました。
そこで次に電話したときに、「難病だからと言って全てが補助の対象になるわけではなくて、申請して、国の方でどこまでが補助対象になるかが検討されて、はじめてどの程度補助されるかが決まるよ。父の場合は入院、手術代は全部国や道が持ってくれるけれど、他のオムツやもろもろの雑費とか、母の交通費なんかで月に5~10万円程度かかっているみたいだよ。自分で入っていた保険は60日分の入院費しかでなかったよ。」という話をしました。
自営業なので、社会保険に入っているわけでもなく休業補償などもでませんし。
それを聞くと祖母は、「母が病院に寝泊りすればガソリン代かからない。私のときは・・・」と始まりました。
すかさずわたしは「寝泊りしたって食費は買ってばかりじゃ余計にかかるでしょ。大体そこに寝泊りする必要がないし、ガソリン代がかかって困っているとばあちゃんに相談しているわけじゃないでしょう?それなのに“私のときにはこうだった"なんていい出すなんて、意地悪な気持ちで母にこういう風にしなさいという風に言っているようにしか聞こえないよ。」と言いました。
祖母は「そんなつもりじゃ・・」と言いますが、いつもこういう調子でわたしの両親に話をしていたのだから、当然嫌がられます。判っていなかったのでしょうか?
それから更にこんなことも言い出しました。
祖父が昔売った土地が、300万円か400万円になって、祖父が「これは俺の退職金だな」と言ったのだそうですが、祖父が亡くなった今でもそのお金の行方が分からないといいます。で、母が今回父が入院したときに「お金がない、店の支払いだって借金だって」と言って、続けて「300万、400万」とつぶやいたといいます。
・・・・
つまり祖母が言いたいのは、土地を売った300万か400万のお金を母がそっくり持っているといいたいのです!!なるほどね、けれどもわたしは母から店の借金というか住宅のローンが全部で200万程度とだいぶ前に聞いていました。母が祖母に言う際に多めに言ったのか、単なる祖母の聞き間違いなのかはどちらでもいいと思いました。けれどもわたしは、祖母はことあるごとにお金が足りないもっとよこせというようなことをわたしの両親に言い続けていたことも知っていますし、今回このように父が入院している間にも祖母は、「祖父母が店をやっていた時代にはみんなに良くしてもらって店は繁盛してみんなにいいお店だと言われてだからお金もよく入ってきた。それなのに、父母の代になってからあんな店に行くなと言われることがあって悲しかった」などと、何度か聞いたことがあるのですがまた言ってきました。それは母の接客態度が悪いからだとも言います。
「ばあちゃん、父がね、入院してから初めてこんなことを言っていたよ。自分が店を継いだときには700万の借金があったって。わたしね、これ聞いてすごくびっくりしたよ。昔の借金って、今の値段の何倍もの金額に相当するし、利息だけ返済していてもなかなか減らない額だよ。それを今ばあちゃんが言うように300万か400万の借金にまで減らしたというなら、よほどばあちゃんたちよりも、両親の方が商売がんばっているんじゃない??そんなにいい店だと言われてお金いっぱい入ってきたはずなのに、なんで700万も借金あるのさ?確かに母はお客様に対してもびっくりするくらい態度悪いときもあるよ。わたしも1回本人に指摘したことがあるほどだもん。けれども、やれることはそれなりにやっていたということだよね、少なくとも借金が少なくなったということがそれを証明しているんじゃない?」
わたしは、他のこともフォローしておいた。
「確かに母は怒りっぽいし、いつも怒っている感じだけれど、怒りながらもそれなりに色々やってくれている人でしょう?ばあちゃんにだって、あれこれ怒りながらも、野菜持って行ったり、ご飯だって持って行こうと思うときにはばあちゃんのご飯の時間が早いからと言って早めに作って持って行ったりしていたんだけど?けれども、ばあちゃんって他人様にはなんでもやってくれたとやたらと感謝するけれど、父や母がやってあげたことに大しては割りとここが気に入らなかったとか、文句ばっかり言っているんだよね。」
これだけ言っても頭の中で一体どうなっているかまったくもって不可思議なのだが、祖母はこんなことも言い出した。「父が店を継いだときには毎月25万円くれたんだわ。それがいつまで続くんだろうと思っていたら、すぐに減った。だからあれは祖父母が一生懸命稼いで溜めておいたものをくれたんだと思った。」というのです。700万の借金の中のどこに財産があるというのだろう!?全く奇天烈もいいところだ。これを聞いた瞬間に、わたしはもう祖母の昔話を聞かないと決めました。
そしてこんなことも言っていました。
「毎月もらっていた25万はだんだんと減っていき、じいちゃんがが生きていた頃には8万にまで減った」
すかさずわたしは「いいや、違うよ。じいちゃんが生きていたときには15万と聞いている」と言いました。
祖母は続けて「8万とかに減らされたときにも、これだけくれてありがたいと思って今まで生きてきたけれど・・・」というので、この嘘に塗りたくられた面をはがしてやりたくなりました。
祖母という93歳にもなる年寄り相手にいささかかわいそうかとも思いましたが、これは少し考えてもらわないとと思いました。
「ばあちゃん、多分5年かそれくらい前のことになるかと思うんだけれどね、ばあちゃんって、年金含めて月10万円程度で生活することで文句ばっかり言っていたときがあるんだよね。わたしはそのときばあちゃん宅へ行って、わたしは月13万円で家族3人で家賃も払って怜の将来の学費の積立もして幼稚園やピアノにも通わせてやっているけどばあちゃんは家賃だって全部父に払ってもらっているしほかは自分のことにだけ使えるのになんで不満ばかり言うのかと聞いたら、年をとったからもっと自由になるお金いっぱい欲しいし遊んで暮らしたいと言っていたよ」と知らせてあげました。
「そんなこといっていたかい!?」とかなり驚いていたようです。
他にもたくさん、色んな昔話を聞かされて、色々言わせてもらいましたが、いいところほとんど言いたいことを言わせて貰ったので、「もうばあちゃんの話しは聞かない」と言い、その後は電話も手短に終わらせています。
いうならば、うちの両親もその場でプンプン怒ったり、無視したりするような感じではなくてこういう作戦をとっても良かったのではないかと思います。
ただ、わたしは一応知ってもいます。このようにズケズケものを言えるような人間ってそう多くは無いということも、わたしはちょっと特殊なタイプであるということも。
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